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「道 パッサカリア」  レビュー 
    Passacaglia   Reviews

  02

いわゆる「映画」といささかおもむきを異にする、それでいながら、実験映画ではなく、シネマ・ディフェランではさらにない、むしろ、夢をみているような体験、いまみている、きいている、体感しているのが、夢なんじゃないか、ああ、夢だなとそのまますんなり納得する、そうした夢=映画なのだ。書きながらうかびあがってきたのは、またべつの言いかた、アンドレ・ブルトンがつかった通底器、夢と映画とが底でつながっている、そのような。

                                小 沼 純 一 音楽・文化批評、詩人

ぼやけているのは映像なのか。

みている「わたし」の目なのか。

すこしずつわかってくるのは、くぼみへとすいこまれてゆく砂、砂、砂たち。 砂時計は、とおくからみると、ときのながれをわからせてくれるが、目を近よせると、砂のこまかいうごきにときがまぎれてしまうよう。

作曲家・武満徹は、のちに2台のピアノとオーケストラの作品にもこのタイトルをつけるのだが、唯一の「映画随想」に『夢の引用』とタイトルをつけ、本文にも、映画は夢の引用だ、と記した。

伴田良輔の映画『パッサカリア』にふれておもっていたのは、この「夢の引用」ということば、また、このとおり、作家にとっても、みるものにとっても、さまざまな夢が知らず知らず引用されてできている、それはまた、ふだんふれることの多い、映像と音とともにストーリーが紡がれつゆく、いわゆる「映画」といささかおもむきを異にする、それでいながら、実験映画ではなく、シネマ・ディフェランではさらにない、むしろ、夢をみているような体験、いまみている、きいている、体感しているのが、夢なんじゃないか、ああ、夢だなとそのまますんなり納得する、そうした夢=映画なのだ。書きながらうかびあがってきたのは、またべつの言いかた、アンドレ・ブルトンがつかった通底器、夢と映画とが底でつながっている、そのような。

 

ちょっとしたモノやかたちが、べつのエピソードのなかに、ふと、ある。それが夢のよう。

つながりがないはずなのに、ちょっとしたモノやかたちが、ときに、ところどころに、あらわれる。

 

生きているものたち。 たぶんもう朽ちかけているものたち。 水にぬれたものたち。 宙にうくものたち。

 

水に浮いたびんざさら。

 

どこかでみた、知っている、記憶のどこかにある。既視感? たしかに。部分的には、ときどき。にもかかわらず、作品そのものは未知であり、未知の体験となる。未知はまた、道、でもある。

 

伴田良輔は「パッサカリア(Passacaglia)」を列島のことばで「道」とし、二語を並列させる。

passacagliaは音楽用語として知られるし、映画のなかにはバッハの、そのタイトルの楽曲がほぼさいごにながれもする。ひとつのフレーズが低音でくりかえされ、ひとつの楽曲の統一原理となる。おなじ道をとおっているのに、みえるモノや風景は変化しつづける、というような。

passacagliaには、passがあり、passageがあり、pasがある。pasはフランス語では、名詞で「あゆみ」であり、また否定辞。作家=批評家のモーリス・ブランショは、この二重の意味をこめてつかった。あらためてふりかえれば、道が未知であることと、つながりがなさそうでありそうだ。

 

イタリア語で語られる幾何学的なことば。

三角や四角の、また、渦をまく曲線の。

図形は、ときにひとがうごかし、ときに生きもののようにみずからうごき、かたちを変える。

直線でできた図形にひそむ性質は、人為的なものでなく、なぜか、どうしてかわからないながらも、この世界に、あたりまえのものとして、ある。

この数学的な、あるいは、幾何学的な性格であり法則は、ひとの目にふつうにはいってくる自然のさまざまなものたち、まるで法則を持たない渾沌としたもの、ものたちと対照をなすかのようで、じつは中国の太極図のように、どちらが欠けてもなりたたない、おなじようにひとつところにある、宇宙にほかならない。言い換えれば、ともに宇宙の原理。

 

マヌーシュ・スウィングらしき3拍子の曲を演奏しながら歩いてゆく3人(ヴァイオリン、アコーディオン、ギター)。

 

3人、3拍子、三角形。 そして、3から4。

 

映像は、エンペドクレスの四元素、すなわち、火、空気、水、土から、ガストン・バシュラールの、夢の酵母としての元素がさまざまに。

これら原初的なもの、あらわれ、イメージを喚起する。

若い女性が木の枝で竹をたたく。

すこし遅れてこだまがかえってくる。

でも、こだまにしてはおかしい。

かえってくる時間が、間が、ひびきが、ちがう。

たくさんはえているから、たたくごとに音が、ちがい、かえりもちがう。

ししおどしがいくつもひびきあうように。

自然現象のこだまではなく、あたかも、こだまという生きもの、いや、精霊が、かえしてくるように。 女性は走りさってゆく。

このままこだまとやりとりしていては、との危惧をいだいたかのように、こだまから逃げてゆくかのように。

こだまを知らなかったとき、ところに、かえってゆく。

屏風(?)のうしろからおもてへとゆっくり歩いてゆく、ひとり、ひとり、のひと、たち。のこぎり、びわ、びんざさら、を手にして。たぶん、目にみえるけれど、ふつうにはいないようなひと、たち。

 

さびた鍵穴からのぞきみる若い女性。

ちいさいところ、かくれたところ。

歳月が経っている。 のぞきみ。好奇心。

フォーレ《レクィエム》の〈ピエ・イェズス〉が、ほかでもない、声とオーケストラでも、声とオルガンでもなく、ピアノ、打鍵するとすぐに音が減衰するピアノで演奏されること。

 

かえろうか。 どこに? どうやって? でも、エジプト生まれのユダヤ系詩人、エドモン・ジャベスは、沙漠は道でいっぱいだ、と記したものだが、道は、帰る道はいくらもあるはずなのだ。それは、この映画にあるもの、うつしだされているもの、であり、編集され、撮影され、用意される、その前、それ以前そのもの、かもしれない。

 

 

 

 

  01

 

 人が当たり前のように見ている世界から、人の眼を外してしまったらどうなるか。草木や鳥や帽子や幾何学図形たちは人の眼に見られることをやめてはじめて、別のところにある生を、本来の生を生きはじめるだろう。それはときに、各々の生であると同時にすべてのものの生でもあり、そしてすべてのものの死でもある。生と死が、存在と不在が睦み合い、重なりたわむれながら、ついには同じものとなってしまう。
  見る者もまた、映画の冒頭からすでに、それと気がつかず変容してしまっている。闇のなかで決壊しつつある壁の隙間から差し込む光のように、囁きかけてくる声たち。天も地もなく、あわいだけが永遠に続くような水中への潜行……。
  草木のなかで歩行する最上さんの身体は途方もなくうつろだ。不在が歩いている。やがて、歩いている、だけが残される。誰が歩いているのか? 現実はだんだんと関節を外しはじめる。写っているのは間違いなく最上さんの歩行と呼ぶべきものであるはずが、本当には何が写っているのか、もうわからなくなっている。わからなくなっているのは誰なのか。私と私の間にも、もはやうつろがあるばかりだ。さっきまで私だったものは今や、映画館にぽっかり空いたうつわになってしまった。

   お茶会では、帽子屋が数と幾何学の秘密を明かしてくれる。不在の蛇、正方形を割ることで立ち上がる幾何学の謎。それはたちまち魔術となり、映画のなかのすべてのものに、映画を見る私にさえ取り憑いてしまう。すべてのものは幾何学の法則の支配下にあるのではないか?幾何学が椅子を着ている。幾何学が蝶を、蜥蜴を、鳥を、草を、光を、影を、かつて私と呼ばれたものを着ている。比喩を知らない数の魔は、それだけ切実さをもって認識にぴったりと貼りついてくる。

  同時に、映画全体をゆっくりと流れているのは水の気配だ。光で満ちた空気と水は互いに透明な揺らぎのうちにあり、どこか決定的なずれを含んだパラレルの世界をうつしだす。空気の世界で死に、水中へ墜落した虫は、水の世界でふたたび浮遊する。とすれば空気のなかを泳いでいる虫は、水の世界から空気中へ墜落した虫なのかもしれない。
  バレリーナが水中で踊る。渦の中で重なり合うその姿は、デュシャンの《階段を降りる裸体》を思わせる。きっと生命とは、宇宙から見ればこんな幾何学的ブレの一瞬にすぎないのだろう。バレリーナはいつのまにかアンデルセンの切り絵モビールに変身して、アラベスクのまま幾何学的回転を繰り返す。切り絵のくっきりとした輪郭は光を受けて、トウシューズの爪先から幾重にもほどけた影を伸ばす。影は絶え間なく揺らぎながら、水の気配を立ち昇らせる。水は空気の影なのだろうか? 水は死んだ空気なのだろうか? 空気は死んだ水なのだろうか? 問いは次第にアリスの世界めいて彷徨いはじめる。ところがそのとき、バレリーナの切り絵は呆気なくぱたりと倒れ、影と重なる……。
  passacagliaとは、反復される低音と変奏を繰り返す上音の構造から成る、踊りのための音楽なのだという。寄せて返し絶えず流れ続けるものが底にあり、その上を、生命の踊りが幾重にも変奏しながら渡って行く。映画を見る者は、裁くための眼を忘れて、ただ無心に踊りに加わる。そんな音楽的構造が、豊かな哲学を抱いて、映画のかたちを結実させていることに驚異するばかりだ。
 
人がいつの日かはぐれてしまった〈存在そのもの〉がたちこめてくる。映画が終わるとき、はぐれてしまった私はいつしか半分しかない身を果てしなく開かれて、世界のもう半分をひたすらに待っている。

     Fleur cent têtes  百頭花 画家

03

 

  パズルを解く愉しみは、万策尽き果てたとゆき詰まったあとに訪れる。常識を広げ、枠をはみ出し、見る角度を変えた途端に謎が氷解する、あの瞬間。それは知識に頼らずとも、動物的直感でまかなえる世界だ。だから子供が知恵の輪をはじめとした立体パズルをいともたやすく解いてみせ大人を驚かせたりするのだ。

   伴田良輔氏の映像作品「パッサカリア」では、シーンの随所に図形パズルが散りばめられている。これらパズルのピースは、数式の解を導く重要な手がかりでありつつ、同時に記憶の断片のメタファーとして、鑑賞者の心をかき乱す作用がある。

  この映像作品にストーリーはあるといえばあるし、ないといえばない。しかしながら簡単に「映像詩」とか「アートフィルム」と括ってしまうのはもったいない気がする。それで様々な見方があると思うのだが、私は仮にこんな筋をつけてみた。「ダムの底に沈んだ集落のバスが冥界からよみがえり、不思議の国のアリスの白ウサギのごとく、ピアノ弾きの少女の午睡を誘発し、鮮やかな夢を見せる」。

     …とはいえ、その夢は決して荒唐無稽なものではない。現実と平等に扱われ、むしろ現実以上にはっきりとした理に覆われているのがこの映画のユニークな点だ。 カメラワークや編集はというと、どのシーンも絵を動かす歓びに溢れている。 楽団が原っぱを歩き回る場面は俯瞰で撮影され、人物は点となり、逆に地面に伸びた陰がいきいきと動く。 オオムラサキの死骸は、揺れる水面をたゆたい、まるで空を羽ばたいているかのようだ。 砂時計の砂が吸い込まれる穴をズームで撮影したシーンは、足元から崩れ落ちそうな強力な引力があった

   伴田氏は過去にストップモーション・アニメを制作していた聞くが、そうした経歴があるからか、CG、AIが発達した現在においても小手先の技術には惑わされず、映像の魔術的な根源をしっかり離さないでいる。こうした氏の映像メソッドは、もっと評価されて然るべきではないだろうか。 ところで私はこの世界は「拡大するマトリョーシカ人形」ではないか考えている。 どういうことかいうと、人類最初の「お母さん」がもっとも外側のマトリョーシカとし、このいわば「イヴ」にあたるマトリョーシカの子宮に子が宿り、その子が成長して新たな子を孕み、内側へ、ひとつ、またひとつとマトリョーシカが産み増やされてゆく。こうして時と共に内側と外側は距離はどんどん遠くなるものの、最初のマトリョーシカのなかから我々は永遠に出ることはない。ともすれば閉塞感を伴うこの考えは、それでも私を大きく安心させるのだった。どんな道に進もうとも、自分は拡大するお母さんのお腹の中にいるのだ…。

  「パッサカリア」の劇中では、イタリア詩人が鳥に向かって「どの一人のお母さんがいなくても君はここにいなかった」と生命の流れについて諭すシーンがあるのだが、やはりここで自分はマトリョーシカ理論を想起したものだ。そしてあの北国の素朴な入れ子状の木細工が、パズルの一種なのだったと思い至った。複雑な謎を持たないシンプルな立体パズルは、しかしながら生命の謎をきっぱりと説明しているではないか。 作品のラストにこんな一文が挿入される。

 「パッサカリアとは自分の道をみつけること」。この作品は広大無辺に広がり続ける終わらないパズルの中で、自分の位置を見失わないための地図、あるいは羅針盤だったのかもしれない。

             岡 美里 美術作家

2023年12月10日にオンラインで行われた

映画「道パッサカリア」をめぐる鼎談より

「いま何故映画なのか」

最上和子

飯田将茂

伴田良輔 

主催 ユリシーズ

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